小田香特集2020より「ノイズが言うには」を観て

 

 これは、#AFTAC2020 の17日目の記事です。

  附属天王寺OBOGアドベントカレンダー12月17日分の枠を頂戴しました。十の位が5の期です。

 

 映画について書きましたが、私の文章力では観た人以外にはこれっぽちも伝えられなさそうで、アドベントカレンダーの記事のテーマには不向きでした……。興味のない人は、おまけまで飛んでください。

 

 

小田香特集より「ノイズが言うには」について

 少し前に、小田香特集2020「ノイズが言うには」「あの優しさへ」を観ました。

 先に言い訳をしておくと、映画愛好家ではありません。今年はジブリの再上映2本と、小田香特集2020と、ホセ・ムヒカしか劇場で観ていません。でもまあ、ほんの少しだけ、「ノイズが言うには」についての感想というか、観たときの自分の気分を書きたいと思います。ネタバレあります。

 

  「ノイズが言うには」

 主人公(かっちん)は、23歳の誕生日に自信が性的少数者であることを家族に告白する。「キショ」と言う母、「ちょっとおかしいんと違うか?」という父に失望したかっちんは、この告白についての映画を、家族に協力(出演)してもらい、つくりはじめる。

 

 家族と話をするときの悪い感じの照れ(恥ずかしさ? 気まずさ?)で、息苦しくなって、しんどかったです。劇場が地下なうえにマスクをしていたのもあるかもしれませんが。

 映画を撮ることによって、かっちんが家族に自分の正しさ(自分はおかしくもないし、キショくもないこと)を分からせようとしたような感じで、「これがカメラという武器の使い方か!」と思いました。カメラは客観的ではないんですね。

 かっちんが良い者で、家族(親)が悪者。でもその悪者が、少しは自分の非に気づいている(告白の時点では気づいていないだろうから、少しずれる)。でも撮影する。良い者による制裁になるかと思いきや、悪者が弱者に見えてきて、弱い者いじめ(とまで言うのは躊躇するが)のようであるのに、武器を使用した良い者も反動でダメージをくらう。その良い者はそもそものやられた側(でも先に告白という攻撃をしている)だから、反動のダメージではなくただの追いダメージ。というような感じで、カオスでした。誰が幸せになったんだ。

 そもそも、どこまでが作り物で、どこからが現実なのかわからなかったです。作り物でも現実でもなくて、「映画」なんでしょうか。

 その家族の中でかっちんは子供(しかも末っ子)というポジションであることを感じる瞬間、子供であるということを行使した(子供であることに甘えた)ように思える瞬間が何度かあって、きっと親は親としての機能を果たしてきたんだろうなと思い、「家族」を感じました。これもちょっと照れるポイントでした。

 

 何と言うか、息苦しくなって、しんどくなり、冷や汗か出る感じに照れる映画でした。こんなにも気分に影響を与えてもらって、忘れたくない映画です。観て良かった。

 

 好き勝手に書きましたが、全くの見当違いな解釈をしている部分があります。絶対にあります。

 

おまけ~~重松清著「十字架」を読んで~~

【問い】いじめを苦に自殺したクラスメイトは、何故主人公のことを「親友」と呼んだのか

 

 答えは物語の最後(文庫版なら360頁あたり)に載っています。私は読むまで答えに気づけませんでした。問いを持ちながら読んでいたら、思い当たったのかもしれませんが……。悔しかったです。

  気が向いたら読んでみてください。

 

  

 今年も好き勝手に書きました。

 主催の@ChinChanTwo、読んでくださった方、ありがとう。